読書感想文

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藤代泰三『キリスト教史』

大変勉強になった。著者の歴史的な見解を踏まえることで、教理の理解が深まることが多々あった。例えば三位一体説がどうしてそんなに問題になるのか、よくわかってなかったのだけど

キリストにおける神的なものと、父なる神における神性とが、どのような関係にあるのかについては教会内の見解には相違があった。キリストは神と同一視されうるのか、それとも神に従属しているのか。そしてもしキリストは神であるとの信仰に立つ場合、キリスト教徒は二神論に陥るのではないかとの疑問が起こった。しかし彼らはキリストは神であると告白しないではいられなかった。そしてキリストを神とする場合、創造者なる神とキリストの関係をどのように考えなければならないのか。さらに神とキリストと聖霊の関係はどのようになるのであろうか。 そしてキリストが人にして神であるという場合、この両者の結びつきはどのようなものなのであろうか。

「推しのことを神って呼ばずに居られない」問題、ということである。

渡辺京二『夢と一生』

この再春荘で出会った「忘れがたい人」には、ほかに岩波文庫ヘーゲル『小論理学』二巻を読み抜き、氏にとっては理解不可能なところに自己流の傍線を引いて自らの生きた証とした青年と、ろっ骨を何本も削る大手術後の夜に杖にすがって病棟に姿を現すという命がけの冗談をやって、病棟の患者から大喝采を浴びた青年が、あるいとおしさとともに紹介されている。

「私が例をあげたあの青年の、手術の当夜に病棟に現れてみせるという「冗談」は、彼のうちにうずまいている何ものかの表現ではなかったのだろうか。このような民衆の非日常的なものへの感覚や衝迫は、階層を下降するにしたがい、市民社会から遠心的に疎外されるにしたがって、鮮明かつ強烈になる。」(「民衆論の回路」)

これ、今話題のお寿司ペロペロではないのか。

新渡戸稲造『世渡りの道』

新渡戸の説く「世渡りの心得」をそのまま受け取っても悪くない(一部現代的にはキャンセルされかねない部分はある)が、明治期のインテリから見た「日本」の自意識、世界というものが垣間見えるのもおもしろい。

傘の重量を減ずるためには、雪を承ける傘の重みをなるべく軽くすることが必要で、これがためには傘製造の材料を精撰して、成るたけ軽い物質を使用するごときも一法である。例えば五十本以上の鬼骨ある唐傘もあれば、四十本位のシゲ骨の蛇の目もある。丸骨の蝙蝠傘もあれば、溝骨のものもある。繻子を用いた重いものもあれば、甲斐絹の軽いのもある。今後は鯨の骨かアルミニウームの類を用いて、ますます軽くする時期も来るであろう。

明治のカーボンファイバー、鯨の骨。

村上重良『日本宗教事典』

三種の神器八尺瓊勾玉の項より。

箱の中は、天皇といえども見ることを禁じられ、箱に積った埃すら払ってはならないとされていた。 (中略)十世紀なかばの冷泉天皇は、箱の中を見ようとして紐を解いたが、白雲のようなものが立ち昇ったので、畏れてとりやめたという。また十三世紀はじめの順徳天皇は、箱を試みに振ってみたところ、鏡一箇ほどのものが動いたという。

天皇ですらも、やっちゃダメって言われたことをやっちゃいたくなるものだという記録が残っているところがいいなと思った。

懐奘『正法眼蔵随聞記』

欲望を爆発させた後に来る、いわゆる賢者タイムって「これが全ての欲得から開放された悟りなのでは?」と思う人は多くいると思うんだけど、「悟った後も修行を繰り返せ」「一事に集中せよ」「専心打坐あるのみ」という道元禅師の教えを組み合わせると???

フロイト『精神分析学入門』

フロイトの理論の是非は置いておくとして、まず、フロイトはとにかく話がうまいおっさんなのであって、この本はそれだけでおもしろく読める。

さて、はじめにみなさんをノイローゼ患者なみに取り扱ったとしても、気を悪くしないでいただきたいのです。ほんとうのところ、私はみなさんに二度と私の話をききにこないように忠告したいくらいなのですから………。そこで、まず私は、精神分析の教育にはどのような不完全さが必然的につきまとうものか、また、自分自身で判断をなしうるようになるまでには、どのような困難があるかをお目にかけようと思います。さらに、みなさんがこれまで受けられた教育の全方針や習慣的な思考法が、どのようにしてみなさんを精神分析の反対者にしてしまうか、また、この本能的な敵対心を克服するためには、どれほど多くのものを征服しなければならないかを示したいと思います。私の報告することをおききになって、みなさんが精神分析についてどんな理解をされるようになるか、私にはわかりません。しかし、私の報告をきいても、そこから精神分析の研究や治療の方法を学びとることができない、とだけは、はっきり申し上げられます。もしひょっとして、みなさんのうちに、精神分析のおおよその知識を得ただけではあきたらないで、精神分析と縁をきらずにいたいなどというかたがあるとしたら、私はそれは中止したほうがよいと忠告するでしょうし、直接に警告もしたいのです。 今日の状況では、精神分析を職業として選んだとすれば、大学教授となって成功する可能性をみずからなくしてしまうだけです。また練達した医師として開業してみても、社会はその人の努力を理解せず、疑惑の目でながめ、機会さえあ ればと待ち伏せている悪意の連中は、いっせいにとびかかってくるでしょう。今日のヨーロッパにおいて怒り狂っている戦争(第一次世界大戦 一九一四〜一八)にともなうさまざまな現象(残虐行為や破廉恥な行為など) をごらん になれば、このような連中がどれほど多いものか、およその察しはつくはずです。

しかし、いつの時代でも、このような不快なことにめげず、一つの新しい認識となりうるものにひかれる人がいないわけではありません。 みなさんのなかにも、このようなかたが幾人かおられて、私のを諫言をも無視して、このつぎにもここへこられるというのであれば、それは大歓迎です。 ところで、さきほどちょっとお話しした精神分析を学ぶ途上の困難とはなにか、教えてほしいと要求する権利がみなさんにはあるのです。

講義のしょっぱなにこれだけ長々と精神分析のややこしさを述べたてた上で、「……でもまぁ、それでも興味があるなら、覗かせてあげてもいいよ」という素振りは、いかがわしい興行師のそれ。

プルタルコス『饒舌について』

プルタルコスのエッセイは異常におもしろい上、古代の知識人らしく、話の登場人物もセレブばかりでとにかくすごい。現代の「芸能人が片手間で書いたユーモアエッセイ」みたいのを一息で粉砕するパワーがある。

シシリー島シュラクサイの僭主ヒエロンは、いやな口臭がすると敵から言われた。そこで帰宅して妻に言った、「これはどういうことだ。そなたもこんなことは一言も私に言わなかったではないか。」

その妻は賢く純情な女性だったが、「殿方というものは皆さまこういう臭いがいたすものと存じておりました」と答えた。かくのごとく、感じとか、誰の目にも明らかなことというものは、友人や近親者より敵から知らされるものなのだ。

統治者なんかになったばっかりに、後世の人間に「口臭がひどいことを妻にあたりちらした」と記憶されることになった男。

賢明なるアリストテレスも同意見である。彼もおしゃべり屋につきまとわれ、見当違いな話を聞かされてうんざりしていたのだが、その男が、「先生、これは驚くべきことじゃありませんか」と言うに及んで、「なに、そんなことはない。それより、ちゃんと足があるのに君から逃げ出さずにいる者でもいたら驚くがよい」と言ったそうだからである。 これと同類のまた別の男が、さんざんしゃべったあげくに、「先生、私の話にお疲れのようで」と言ったのに対してアリストテレスが、「いや、とんでもない。 聞いてはいなかったからね」と言ったという話もある(この二つの逸話の出典不明)。

あわてないアリストテレス

スッラは直ちに深夜に軍勢を起こして市内に乱入し、ほとんど完膚なきまでに市を破壊して殺戮をほしいままにしたので、市内は死屍累々、市場北方のケラメイコス区などは 血が川をなして流れた。スッラはアテナイ人に対してかほどまでに憤怒を燃やしていたのだが、 それはアテナイ人の振舞いではなく、むしろ自分について彼らが言った言葉が原因となっていた。 というのも、アテナイ人は城壁の上に跳び上って、スッラとその妻メテッラの悪口をはやしたてたのである。

「うどん粉まぶしの桑の実野郎」

意味はわからないがとにかく絶対に他人に向けて投げかけてはいけない言葉。