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『論語』と『論語と算盤』を見比べてみる

渋沢栄一論語と算盤』の核は、孔子は金儲けを嫌ってなんかいないんだヨ、道徳と金儲けを両立させることは可能なんだヨ、というところだと思うのだが、孔子はほんとにそんなこと言ってるのか。

俺の持ってる『論語と算盤』は加地伸行が解説と編集を加えているのだが、加地伸行訳注の『論語』も持ってるので、渋沢の解釈と加地の現代語訳(解釈)を見比べてみた。『論語と算盤』に1ミリも興味がない人、『論語』に詳しい人、『論語と算盤』に詳しい人、加地伸行に詳しい人、加地伸行氏自身はこの記事を読む価値は全くない。

以下、引用元はそれぞれ、渋沢栄一論語と算盤』角川ソフィア文庫版(2008年10月初版 2009年10月第5刷)、加地伸行訳注『論語 増補版』講談社学術文庫版(2009年9月初版 2010年6月第6刷)による。

例を挙ぐれば、論の中に、「富と貴きとはこれ人の欲する所なり。 その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり。貧と賤とはこれ人の悪む所なり。 その道をもってせずして、これを得れば去らざるなり」という句がある。この言葉は、如何にも言裡に富貴軽んじた所があるようにも思われるが、実は、側面から説かれたもので、仔細に考えてみれ ば、富貴を賤しんだところは一つもない。その主旨は、富貴に淫するものを誡められたま でで、これをもって、ただちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚だしといわねばならぬ。 孔子の言わんと欲する所は、道理を有た富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならば、あえて差し支えないとの意である。

(『論語と算盤』p.130)

ここに加地伸行はどういう現代語訳を付しているか。引用元は里仁篇第四(『論語 増補版』p.83)にある。

老先生の教え。財産と高い地位とは、人間の求めたがるものである。しかし、正当な方法 (其道)を用いなかった結果であるならば、たとい得たとしても私はそこにいない。貧困と低い地位とは、人間の嫌うものである。しかし、正しい方法を用いなかった結果であるならば、たといそうなっても私はそこから出ようとはしない。教養人たる者(君子)は、正当なありかた(仁)をはずれて、どうして「君子」と名乗れようか。 教養人は、食事中という短い時間においても、正当なありかたを忘れない。いや、あわただしいときでもそうだ。いや、倒れたようなときにおいてもそうなのだ。

確かに富貴を賤しんでないと言われればそうだが、明らかに「正当」であることに重きを置いている。「財産と高い地位」は、弟子たちにわかりやすいよう持ち出した例えという感じが強い。渋沢の解釈は一歩踏み込んでいる。

さらに一例をもってすれば、同じく論語中に「富にして求むべくんば、執鞭の士といえども、吾またこれをなさん。 如し求むべからずんば、吾が好む所に従わん」という句がある。これも普通には、富貴を賤しんだ言葉のように解釈されておるが、今正当の見地からこれを解釈すれば、句中富貴を賤しんだというようなことは、一つも見当らないのである。「富を求め得られたなら、卑しい執鞭の人となってもよい」というのは、「正道仁義を行なって富を得らるるならば」ということである。すなわち「正しい道を踏んで」という句が、 この言葉の裏面に存在しておることに注意せねばならぬ。しかして下半句は、「正当の方法をもって富を得られぬならば、いつまでも富に恋々としておることはない。奸悪の手段を施してまでも富を積まんとするよりも、むしろ貧賤に甘んじて道を行なう方がよい」との意である。ゆえに、道に適せぬ富は思い切るが宜いが、必ずしも好んで貧賤におれとは言ってない。

(『論語と算盤』p.131)

これは述而篇第七(『論語 増補版』p.149)にある。

老先生の教え。〔それによって〕 どんと儲かることができるものならば、通行者の整理のような〔下働きの〕仕事であろうと、私はそれをしよう。 しかし、それによって特段儲かるような仕事でないのならば、貧乏を覚悟で 〔学芸とか先人の歩んだ跡とか〕 自分の好きな道に没頭して暮らしたい。

この訳だと、一般論(どうあるべきか)というより孔子の趣味(どうしたいか)の話をしているように読める。主語のニュアンスがどこにあるかということだが、まぁ自分の趣味を一般論に近づけていくことが道徳なのだとすれば、どちらも通じているということになる。ただ、論語は「これこれが仁の道というものだけど……そうは行ってもなかなかね」「仁の道を目指してこんなに頑張ってるのにどうして用いられないのか……」という慨嘆がちょいちょい挟まるところに人間味を味わえる楽しい書物なので(論語は楽しい書物なのだ!)、趣味のニュアンスで読んだ方が楽しく読めると思う。

ちなみに、講談社学術文庫の『論語 増補版』は、索引や図表が充実していて大変便利である。用語だけでなく語句(言い回し)や人名索引もついているので、上の内容も20秒くらいで探し当てた。『論語』を紙の本で遊びたい人におすすめしたい。

以下、上記以外で印象に残る富の話。

冉先生(冉有)が公西赤の母に留守見舞いとして粟(籾のままで脱穀していない米)をお贈りくださいとお願いした。老先生は「釜(六斗四升)ほどを遣わせ」とおっしゃったが、冉先生は、もう少し増やしてくださいとお願いした。 すると老先生は「庾(十六斗)ほどを贈れ」と指示された。しかし、冉先生は〔やはり少ないと思って、〕五秉(八十斛)を贈った。 先生はおっしゃった。 「〔公西〕 赤が斉国に使いしたとき、立派な馬に乗り、軽装(皮のコート)を着て行った。〔豊かではないか。〕 私はこう学んでおる。『教養人は、相手が急場で困っているときには手厚く援助し、豊かであるときにはわざわざ継ぎ足すようなことはしないものだ』」と。

(雍也篇第六 『論語 増補版』p.123)

教養人関係あるか?

論語はたまに変なことを言ってておもしろい。真面目に教訓めいた解釈だって可能なのだろうが、一般ピープルのあさはかな読みでもそれなりに楽しめる。

斉国の景公は、馬四千頭余を有するほどの富国の君主であった。しかし、その死後、だれも人格者として賞讃する者はなかった。伯夷・叔斉の兄弟は〔諸侯である周国の君主が、仕えている股王を伐とうとするのを諫言したが、結局、周の国君は殷王を倒して周王朝を建てた。兄弟は周王朝治政の下の農作物を食べるのを恥じ〕首陽山に隠れ、〔わらびを採って生活していたが、最期は〕餓死した。人々は彼らを今に至るまで賞識している。彼の「人に永く賞賛されるのは実に富によるのではなくて、ふつうの人と異なるすぐれた徳行に依る」という詩句は、このことを言うのであろう。

(季氏篇第十六 『論語 増補版』p.387)

渋沢の主張と真っ向から反する教訓とも読めるが、単に詩句の論評であるとすれば必ずしも孔子が同意しているとは言えず、解釈が微妙なところ。

老先生が国へ行かれたとき、冉有が車の御者を務めた。〔衛国に入ったとき、〕 老先生はおっしゃった。「人が多いな。〔重税を避けて他国へ逃げないのはいいことだ〕」と。冉有は質問した。 「人が多いこの上に何を与えましょうか」と。 老先生「豊かにすることだ」。冉有 「豊かにもすることができましたあと、何を加えましょうか」。 老先生「教育だ」。

子路篇第十三 『論語 増補版』p.299)

ここでは民を豊かにしてから教育だと言っていて、富を必ずしも賤しいものとしていないのは確かだが、渋沢の言うように学問(正しい道)を踏んでから富、という話でも、学問と富を両立させるという話でもない。これは孔子において君子と道と民の安寧とは次元の違う問題であって、孔子一般ピープルに対して上から目線で発言しているからではないかと思われるが、渋沢の推進した資本主義の道は一般ピープルの問題なのであり、ここに渋沢にとってアクチュアルな論語解釈のキモがあったということか。