読書感想文

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伊藤昌哉『自民党戦国史』

政治の土俵でジジイが寝技をかけあってばかりというのは困ったことではあるけど、健全さの表れでもあると思う。つまり「他人が何を考えているかなんて、わからない」という前提に立っているということなわけで。そりゃあ、神頼みにも行きたくなる。

松屋が無料味噌汁をやめるか否かを投票で決めるとか言い出したら、みんな無料継続派だろうとは思うけど、やはり一抹の不安はよぎる。人間は異質なものにとらわれる。無料味噌汁反対派という異物を見つけたら、松屋店員の待遇向上を願う無私の人物であっても、苦々しく見えてしまう。投票は人間集団を分断する。ここに「政治技術」を成立させる、空隙が生まれる。

ピエール手塚『ゴクシンカ1・2』外山恒一『政治活動入門』

顔と心に傷を負ってひきこもり同然の暮らしを送っていた男・手塚冷士が、怖い顔の才能を見込まれてヤクザの世界に引き入れられ、ドツボにはまりつつモガくおもしろマンガ。なのだが、1巻の途中で

アタシのオススメは 「自分の都合を相手に押しつける」これだね!!

というセリフを見て、買ったまま積んでいた、外山恒一『政治活動入門』の

そうだ、世の中のせいにしよう。

という秀逸な帯コメントを思い出してしまい、寄り道のつもりでそっちを最後まで読み終えてしまってから『ゴクシンカ』も読み終えた。

手塚は他人と衝突して打ち負かされた時の苦い記憶から、相手の仮想人格を作り出し、仮想人格と会話することでその論理を糧とすることができる「傷痕(スカー)」の能力を会得するのだが、『政治活動入門』にはこんなことが書かれている。

たいていの人は、何らかの"生きがたさ"を抱えており、それを何とかしたいと日々試行錯誤をしているものです。しかし、繰り返しになりますが、その"生きがたさ"をもたらしている原因のうち、その人自身に問題がある部分については、個人的な努力で何とかなりますし、またそれ以外に何とかする方法はありませんが、そうでない部分、時代や社会の状況がおかしいために抱えてしまっている"生きがたさ"は、個人の努力では絶対に解決できないのです。

しかしすべての個人は、この同じ時代や社会の中に生きているわけですから、ある 個人が抱えている"生きがたさ"のうち、時代や社会の状況に原因がある部分については、他の個人と問題意識を共有し、協力して解決の努力をすることが可能です。

この努力が、要するに「政治活動」なのです。

そして政治活動のためには、オリジナルな意見よりも勉強が大切だという。

最初から「自分なりに考えてみる」よりも、まずは自分に近い立場でものを書いていそうな他の誰かの文章を読み、それに対して別の誰かが書いた批判の文章を読み、またさらにそれに対する反論の文章を読み……という勉強をする方が、ずっと良いのです。その過程で、自分の中に、互いに矛盾する、しかもどちらもそれなりに筋が通っていると思える複数の立場が同居するような状態になるでしょう。実は、そうなった時に初めて、本当に「自分なりに考えてみる」ことが可能になるのです。

はたして手塚冷士も、複数の傷痕(過去の他人の言葉や態度)と向き合うことで、自分なりの道筋を導き出していくのであった。

"生きがたさ"の個人面を見ているのが『ゴクシンカ』で、社会面を見ているのが『政治活動入門』である。と、とりあえず言えてしまうが、自己の傷と可謬性を前提として考える物語が『ゴクシンカ』で、自己の傷と可謬性を一旦棚上げにするのが『政治活動入門』であるという振り分け方もできる。そうしてみると1つ、前者は後者が見ていない重要な問題も指摘していることがわかる。それは「相手を見たほんの一瞬の印象や誤解が膨れ上がり、相手がモンスターであるかのように思い込んでしまう」ことが往々にしてあり得るという問題だ。人は全てを見ることはできないし、全てを読むこともできない。「傷」が生まれた原因すら、モンスター化が関わっているかも知れない。となればこの問題は"生きがたさ"に直結し得る。この幻想のモンスターにどう対処すべきか。(余談だが、崇拝だって一種のモンスター化と言える)

『政治活動入門』においては、あくまで勉強は「政治活動」のための肥やしなので、この問題は問題として表れることがない。その代わり(?)、一切の普遍的理念の「定立」を拒否する(=議論が耐えることがない)「ファシズム」を目指すという話になっていくのだが、『ゴクシンカ』は、この問題が変奏されながら、物語全体に響き合い、クライマックスへと向かっていく。

会ったり言ったり書いたり、見たり聞いたり読んだりし続けることって大事だよね、とあらためて思ったので、こうして感想文を書いて公開することにした。

小島直記『日本策士伝』

明治・大正期の異常人物がたくさん出てきて楽しいが、やはりその中でも異常人物のチャンピオンは杉山茂丸である。

「君には今お会いしたばかりであるが、実は必要にせまられていることがあるので、やむをえず二〇〇円の金が借りたい。 承知か、不承知か、簡単に返事をしていただきたい」

 佐々はびっくりする。

 「僕はスカンピンに窮している。 君の要求には応じがたい」

 茂丸は、深くうなずく。

 「それならば、 あそこにかかっている軸をくれませんか?」 それは藤田東湖の「三たび死を決して死せず」 という石だ。    「よろしい。 さしあげよう。 お持ちなさい」 

 自らおろして茂丸にわたした。茂丸は、礼をのべると同時に、それをバリバリと引き裂いてしまった。 佐々は色をなした。

 「人が壁にかけ、三唱して楽しんでいる掛け物をもろうて、それを引き裂いて立ち去ろうとする。 どういうつもりだ?」

 「さっきから目ざわりでならぬから、もろうて引き裂いたのじゃ」 

 「何が目ざわりになる?」

 「君を見そこのうたことが、この掛け物でわかったからだ」

「どういうことだ?」

茂丸は言った。男子の決すべき死は一回限りのはず。 二回も三回もあるべきはずのものではない。藤田東湖は水戸の士であったかもしれぬ。 しかし三たび死を決して死ぬことができず、安政地震で圧死した。その程度の男の書いたものを仰々しく壁にかけて三拝九拝、朝夕これを三唱するごとき君なればこそ、西南の役で死にそこなっても恥とせず、懲役にまでいってわずかに余生を保っている。

「そんな男に自分の志をのべたのを深く後悔したから、掛け軸を引き裂いたのだ。異議があるならいいたまえ」

 佐々は腕を組み、しばらく考えた。 そして深くうなずいた。

 「もっともの議論だ。僕は今、君にむかって死生のことを論ずまい。君はどこに泊まっておられるか?」

 翌朝、佐々は宿屋にやって来た。

 「昨日、君と別れてから、どうしても君に必要の金を貸したくてたまらぬ。 いろいろ策の工夫をしてみたが、落ちこむだけ落ちこんだ貧乏のドンであるから、どうしてもできぬ。一晩中かけ回ってやっと一〇〇円こしらえた。

こうして借り出した金を手に伊藤博文を殺そうとして面会し、説諭されて暗殺を思いとどまり、テロリストから政治浪人の道に転ずるのである。異常としか言いようがない。楽しい。

ところで、歴史上の異常人物エピソードを読むのは楽しいのだが、異常人物が活躍してしまう時代というのはやはり不安定な時代なのであって、才覚も勇気もない一凡人としては、あまりそういう時代に生きたくないなと思ってしまう。ドントトラスト歴史好き。次は松沢裕作『生きづらい明治社会』を読んで異常エピソードの解毒をしようと思う。

福沢諭吉『福翁自伝』

裸体の事について奇談がある。 ある夏の夕方、私ども五、六名の中に飲む酒が出来た。すると一人の思いつきに、この酒をあの高い物干の上で飲みたいというに、全会一致で、サア屋根づたいに持ち出そうとしたところが、物干の上に下婢が三、四人涼んでいる。これは困った、あそこで飲むと、彼奴等が奥に行って何かしゃべるに違いない、邪魔な奴じゃなといううちに、長州生に松岡勇記という男がある。至極元気のよい活潑な男で、この松岡のいうに、僕が見事にあの女どもを物干から送っ払ってみせようといいながら、真裸体で一人ツカツカ物干に出て行き、「お松どんお竹どん、暑いじゃないか」と言葉をかけて、そのまま仰向きに大の字なりになって倒れた。この風体を見てはさすがの下婢もそこにいる事が出来ぬ。気の毒そうな顔をしてみな下りてしまった。すると松岡が物干の上から蘭語で上首尾早く来いという合図に、部屋の酒を持ち出して涼しく愉快に飲んだ事がある。

他にも師匠の妻に全裸で応対した話など、数ある偉人の自伝の中でも、全裸エピソードに割かれたページ数は突出していることは間違いない。全裸青年男性が好きなあなたに。

『論語』と『論語と算盤』を見比べてみる

渋沢栄一論語と算盤』の核は、孔子は金儲けを嫌ってなんかいないんだヨ、道徳と金儲けを両立させることは可能なんだヨ、というところだと思うのだが、孔子はほんとにそんなこと言ってるのか。

俺の持ってる『論語と算盤』は加地伸行が解説と編集を加えているのだが、加地伸行訳注の『論語』も持ってるので、渋沢の解釈と加地の現代語訳(解釈)を見比べてみた。『論語と算盤』に1ミリも興味がない人、『論語』に詳しい人、『論語と算盤』に詳しい人、加地伸行に詳しい人、加地伸行氏自身はこの記事を読む価値は全くない。

以下、引用元はそれぞれ、渋沢栄一論語と算盤』角川ソフィア文庫版(2008年10月初版 2009年10月第5刷)、加地伸行訳注『論語 増補版』講談社学術文庫版(2009年9月初版 2010年6月第6刷)による。

例を挙ぐれば、論の中に、「富と貴きとはこれ人の欲する所なり。 その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり。貧と賤とはこれ人の悪む所なり。 その道をもってせずして、これを得れば去らざるなり」という句がある。この言葉は、如何にも言裡に富貴軽んじた所があるようにも思われるが、実は、側面から説かれたもので、仔細に考えてみれ ば、富貴を賤しんだところは一つもない。その主旨は、富貴に淫するものを誡められたま でで、これをもって、ただちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚だしといわねばならぬ。 孔子の言わんと欲する所は、道理を有た富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならば、あえて差し支えないとの意である。

(『論語と算盤』p.130)

ここに加地伸行はどういう現代語訳を付しているか。引用元は里仁篇第四(『論語 増補版』p.83)にある。

老先生の教え。財産と高い地位とは、人間の求めたがるものである。しかし、正当な方法 (其道)を用いなかった結果であるならば、たとい得たとしても私はそこにいない。貧困と低い地位とは、人間の嫌うものである。しかし、正しい方法を用いなかった結果であるならば、たといそうなっても私はそこから出ようとはしない。教養人たる者(君子)は、正当なありかた(仁)をはずれて、どうして「君子」と名乗れようか。 教養人は、食事中という短い時間においても、正当なありかたを忘れない。いや、あわただしいときでもそうだ。いや、倒れたようなときにおいてもそうなのだ。

確かに富貴を賤しんでないと言われればそうだが、明らかに「正当」であることに重きを置いている。「財産と高い地位」は、弟子たちにわかりやすいよう持ち出した例えという感じが強い。渋沢の解釈は一歩踏み込んでいる。

さらに一例をもってすれば、同じく論語中に「富にして求むべくんば、執鞭の士といえども、吾またこれをなさん。 如し求むべからずんば、吾が好む所に従わん」という句がある。これも普通には、富貴を賤しんだ言葉のように解釈されておるが、今正当の見地からこれを解釈すれば、句中富貴を賤しんだというようなことは、一つも見当らないのである。「富を求め得られたなら、卑しい執鞭の人となってもよい」というのは、「正道仁義を行なって富を得らるるならば」ということである。すなわち「正しい道を踏んで」という句が、 この言葉の裏面に存在しておることに注意せねばならぬ。しかして下半句は、「正当の方法をもって富を得られぬならば、いつまでも富に恋々としておることはない。奸悪の手段を施してまでも富を積まんとするよりも、むしろ貧賤に甘んじて道を行なう方がよい」との意である。ゆえに、道に適せぬ富は思い切るが宜いが、必ずしも好んで貧賤におれとは言ってない。

(『論語と算盤』p.131)

これは述而篇第七(『論語 増補版』p.149)にある。

老先生の教え。〔それによって〕 どんと儲かることができるものならば、通行者の整理のような〔下働きの〕仕事であろうと、私はそれをしよう。 しかし、それによって特段儲かるような仕事でないのならば、貧乏を覚悟で 〔学芸とか先人の歩んだ跡とか〕 自分の好きな道に没頭して暮らしたい。

この訳だと、一般論(どうあるべきか)というより孔子の趣味(どうしたいか)の話をしているように読める。主語のニュアンスがどこにあるかということだが、まぁ自分の趣味を一般論に近づけていくことが道徳なのだとすれば、どちらも通じているということになる。ただ、論語は「これこれが仁の道というものだけど……そうは行ってもなかなかね」「仁の道を目指してこんなに頑張ってるのにどうして用いられないのか……」という慨嘆がちょいちょい挟まるところに人間味を味わえる楽しい書物なので(論語は楽しい書物なのだ!)、趣味のニュアンスで読んだ方が楽しく読めると思う。

ちなみに、講談社学術文庫の『論語 増補版』は、索引や図表が充実していて大変便利である。用語だけでなく語句(言い回し)や人名索引もついているので、上の内容も20秒くらいで探し当てた。『論語』を紙の本で遊びたい人におすすめしたい。

以下、上記以外で印象に残る富の話。

冉先生(冉有)が公西赤の母に留守見舞いとして粟(籾のままで脱穀していない米)をお贈りくださいとお願いした。老先生は「釜(六斗四升)ほどを遣わせ」とおっしゃったが、冉先生は、もう少し増やしてくださいとお願いした。 すると老先生は「庾(十六斗)ほどを贈れ」と指示された。しかし、冉先生は〔やはり少ないと思って、〕五秉(八十斛)を贈った。 先生はおっしゃった。 「〔公西〕 赤が斉国に使いしたとき、立派な馬に乗り、軽装(皮のコート)を着て行った。〔豊かではないか。〕 私はこう学んでおる。『教養人は、相手が急場で困っているときには手厚く援助し、豊かであるときにはわざわざ継ぎ足すようなことはしないものだ』」と。

(雍也篇第六 『論語 増補版』p.123)

教養人関係あるか?

論語はたまに変なことを言ってておもしろい。真面目に教訓めいた解釈だって可能なのだろうが、一般ピープルのあさはかな読みでもそれなりに楽しめる。

斉国の景公は、馬四千頭余を有するほどの富国の君主であった。しかし、その死後、だれも人格者として賞讃する者はなかった。伯夷・叔斉の兄弟は〔諸侯である周国の君主が、仕えている股王を伐とうとするのを諫言したが、結局、周の国君は殷王を倒して周王朝を建てた。兄弟は周王朝治政の下の農作物を食べるのを恥じ〕首陽山に隠れ、〔わらびを採って生活していたが、最期は〕餓死した。人々は彼らを今に至るまで賞識している。彼の「人に永く賞賛されるのは実に富によるのではなくて、ふつうの人と異なるすぐれた徳行に依る」という詩句は、このことを言うのであろう。

(季氏篇第十六 『論語 増補版』p.387)

渋沢の主張と真っ向から反する教訓とも読めるが、単に詩句の論評であるとすれば必ずしも孔子が同意しているとは言えず、解釈が微妙なところ。

老先生が国へ行かれたとき、冉有が車の御者を務めた。〔衛国に入ったとき、〕 老先生はおっしゃった。「人が多いな。〔重税を避けて他国へ逃げないのはいいことだ〕」と。冉有は質問した。 「人が多いこの上に何を与えましょうか」と。 老先生「豊かにすることだ」。冉有 「豊かにもすることができましたあと、何を加えましょうか」。 老先生「教育だ」。

子路篇第十三 『論語 増補版』p.299)

ここでは民を豊かにしてから教育だと言っていて、富を必ずしも賤しいものとしていないのは確かだが、渋沢の言うように学問(正しい道)を踏んでから富、という話でも、学問と富を両立させるという話でもない。これは孔子において君子と道と民の安寧とは次元の違う問題であって、孔子一般ピープルに対して上から目線で発言しているからではないかと思われるが、渋沢の推進した資本主義の道は一般ピープルの問題なのであり、ここに渋沢にとってアクチュアルな論語解釈のキモがあったということか。

ヴィトルト・リプチンスキ/春日井晶子『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』

紳士にとって旋盤を回すことは、婦人にとっての刺繍のようなもので、一八世紀の終わりまで趣味として人気を保っていた。一七〇一年に出版された旋盤について の最初の技術、『旋盤の技法』の著者シャルル・プリュミエ神父は次のように述べている。「この技術は、今日のヨーロッパで知的な人々が熱心に行なう趣味として確立されている。純然たる気晴らしと知的娯楽のあいだに位置するものとして、 時間をもてあますことで生じる不都合を避けるための最高の暇つぶしと考え、真剣に取り組む人々もいる」趣味人たちは木だけでなく、角、銅、銀、金といったさまざまな材料を旋盤に載せて回した。そうした作業の産物はといえば、 装飾的な意味合いしかもたないものだったが、彼らは機械を真剣に扱った。

いつの時代にもインターネット的な役割を負っていた何かがある。

奈良本辰也・杉浦明平・橋川文三『批評日本史<6> 吉田松陰――政治的人間の系譜』

ヨッシーは色んな思想を好き嫌いせずパクパク食べ、弟子をポコポコと産みました。ヨッシーは悪を倒すための冒険を続けたけれど、目の前に広がった空隙を飛び越えられず、奈落の底に落ちて死にました。

しかし、背中に乗ってた弟子たちは、ヨッシーを踏み台にして状況を突破し、やがて悪を倒し、維新の大業を成し遂げることができました。