読書感想文

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石井公成『東アジア仏教史』

釈尊の物語風な伝記が、 中央アジアマニ教徒によって古ペルシャ語に訳され、六世紀頃に中世ペルシャ語に改められた。「ポーディサットヴァ(菩薩)」という言葉の語形はブーダーサフと表記され、仏教という点がぼかされて、ある苦行者の話とされた。そのアラビア語版は、一〇世紀にはパクダードの本の目録に載るほどイスラム世界に広まった。

この物語がキリスト教徒のグルジアジョージア)人によってシリア語に訳された際、名がイオダサフと誤記され、インドの王の息子がキリスト教を信仰し、キリスト教を広めて父王を改宗さ せた話に変わった。それが東方教会の神父によってギリシャ語に訳され、さらにヨサファット(ジョザファット)と表記したラテン語訳も出された。

そういや、大陸ってつながってましたね。

上野千鶴子『差異の政治学』

男性学」の巻に、わたしはゲイ・スタディズの項目を立てた。そこで伏見憲明の 原稿の収録を依頼したところ、ご本人からお断りの返事を頂戴した。その理由は、「自分としては男性学もしくはゲイ・スタディズというアンソロジーは、いずれ当事者の声として編まれるべき性格のものだと信じている。その機が熟したときに自分のテクストがその中に入ることを望むけれども、今回のようなアンソロジーには参加したくない」というまことにもっともなもので、わたしは深く納得して引き下がった[上野伏見 1997]。

フェミニズムジェンダースタディズは学問の当事者性を引き受けている。 他人の闘いを闘うことはだれにもできない。 わたしたちが学ぶことができるのは、自分とは立場が違うけれども他人が闘っている自分自身の闘い、他人の闘い方から学ぶことである。 男には男という深刻な問題がある。自分自身の男という問題を解く前に、他人の問題を解こうなどとは越権行為であろう。 フェミニズムは闘う学問なのである。

呉智英が昔、上野千鶴子は絶対いい人だと思うと書いていた。俺は馬上で槍を構える騎士のイメージを思い浮かべる。

佐野眞一『巨怪伝』

あの当時、マッカーサー司令部はヘソと呼ばれていました。朕の上に君臨するという意味です。

元気がないと権力者になれない、ということは色んな政治家や財界人の評伝を読んで理解してたけど、元気がないと権力者の足跡を追いかけることもできない、と参考文献リストだけで30ページあるこの本を読んで悟った。ジャーナリストという職業は世の中に必要なんだよな。

栗本慎一郎『パンツをはいたサル』

京都大学の森教授が、興味深い話をしておられたので紹介しておこう。

「あるときサル学者たちが集まって、類人猿と人間とでは雑種ができそうだ、チンパンジーで実験したいけど、できたコドモの戸籍はどうしよう、なんて話をしていると、隅のほうにいた今西錦司先生が身をのりだしてきて、“おい、ゴリラはおれにやらせろよ!!”」

長年、霊長類の研究にたずさわってきた泰斗、今西錦司氏ならではの名言である。

様々な愛の形。

この本においてパンツとは、本来生物として生きるために必要ないような、人間ならではの余剰品(観念や文化も含む)のことを言うのだけど、最近は全裸中年男性を名乗るロシア軍事専門家などが出てきていて、人類史の事情も変わってきているのかも知れない。

『孫子・呉子』

孫子は「物資はできるだけ敵地で略奪したほうがいいよ」とか「火攻め水攻めサイコー!」とか言ってるので、「孫子の兵法をビジネスに活かす」と言ってる人を見ると「ヤバ……近寄らんとこ……」って思っちゃう。

呉智英『読書家の新技術』

資本主義の会社に勤めている人。何の恥ずかしいことがあろうか。がっちり儲けて、そして読書をしてほしい。マルクスの著作を読んで資本主義の矛盾を知り、現状変革への情熱を燃やしてほしい、搾取の現場にいながら。機動隊に就職した人も、あまりいいことではないが人民を弾圧しつつ、読書に時間を割いてほしい、本当の知的な武装とは何かを考えつつ。こういったことがなされないかぎり、読書は永久に青年の読書に終わり、理想は青年の理想に終わるのである。

すでに、脆弱で子供っぽい正義が読書や理想を支配する時代は終わったのである。

転換期の現代を、読書によって武装した知のゲリラ戦士として、果敢に生きぬいていこうではないか。私からのメッセージである。

こないだ、古代ギリシア哲学の研究者がリベラルアーツや真理を求める生活の意義について350ページかけて書いてる本を読んだのだけど、この一文で十分に足りる内容だと思った。